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行間をよむ

名前に価値があるのではない。言葉に価値があるのではない。

あなたは、なぜ、つながれないのか。

 

最近そんなタイトルの本を読んだ。
その中で、とても心に残った言葉がある。


「たしかに君は繊細だ。だけど世の中にはもっと繊細な人がいる。君はもっと繊細になれるし、ならないといけない」

そんな言葉だったのだけれど、その言葉は私の心にそれはそれは深くグサッと刺さった。

わたしは雷に打たれたみたいにピカーンとなってそのことを今すぐ誰かに伝えたくなって、だからすぐさまそれを友人2,3人に話したんだ。

だけれど残念なことにわたしの感じた感動を理解し共感してくれる人はいなかった。みんな反応薄めで「へぇーそうなんだねぇ」くらいだった。悲しい

 

友人の一人がこんなことを言っていた。

「それってようはコップに水がこれだけしかないと思うか、逆にこんなにもあると思うかってやつと一緒だね。それってすごく大事なことだよね」

そう言われて、あぁ確かにそうだ。とわたしは思った。

言葉が違うだけでそれらの伝えようとしているメッセージはおんなじだ。
何度も聞いたことのあるその例えだけれど、わたしは今までその意味を分かっているようでホントのところ分かっていなかったのだと気づかされた。

この世に同じ人間など一人もいない。

よく似ている人であったとしてもやはりどこかしら違う。

だからこそ嬉しいと感じる瞬間も、悲しいと感じる習慣も、心に刺さる瞬間もひとりひとり違うのだろう。

みんな違うから繋がれないのだろうか。
いや、そんなことはないとわたしは思う。

きっと違ったって繋がれる。違うからこそおもしろいんだ。

 

わたしはわたしを肯定する。そしてあなたのことも肯定しよう。

 

 とってもいい本でした。

あなたは、なぜ、つながれないのか: ラポールと身体知

あなたは、なぜ、つながれないのか: ラポールと身体知

 

幸せそうな人間の言葉なら耳を貸す。

 

人というのはすぐに他人にアドバイスしたがる生き物だ。

 

ああでもないこうでもない、ああしろこうしろ、と自分の思うようにコントロールしようとする。

あなたの為を思って?役に立ちたい?ほんとうにそうかな。
本人は本気でそう思ってるのかもしれないけれど、掘り下げていったら大体は全部自分のためでしかなかったりする。

それは愛なんかじゃなくてただのエゴだ。

 

今まで灰色の大人たちに色々言われたよ。

「君はまだ子どもだから」

「人生そんな甘くない」

「あなたのためを思っていうんだけど」

「わがまますぎるよ」

etc。

そんなこと言われなくても自分が一番わかってます←

わたしは頑張るのがきらいだし、意味のないことがきらいだし、我慢なんてしたくない。

でも別によくない?楽しかったらOKでしょ?

 

頑張ったり我慢したりそうやって無理をしてるとね、楽をしてる人を見るとイライラしてしちゃうんだ。
自分が我慢してることを平気でやってるからさ、ムカつくんだよね。

すっごく分かるよその気持ち。

わたしもそうやって生きてきたから。
なんて自分は心の狭い嫌なヤツなんだと思って自己嫌悪になったりもした。

でもそれって性格が悪いんじゃなくて、ただ羨ましかっただけだったんだって今となれば分かる。

羨ましい気持ちを素直に認めて「なら自分もやればいいじゃん」と自分にGOサインを出すと楽になる。前はムカついていた人に何も感じなくなる。


勝手に我慢して、勝手に怒ってたのは自分だ。 

 

だからわたしは誰かにアドバイスや助言されたときは、必ず相手をよく見ることにしてる。「この人は幸せだろうか?」と考えるのだ。世間一般で言う「しあわせ」である必要はない。大事なのは”その人自身が自分の人生に心から満足しているかどうか”だ。

幸せそうなフリしてる、というか自分で自分を騙してる人もいるから、なかなか注意が必要なんだけど。

自分のことも幸せにできないような人間に、人を幸せに導けるはずがない。

マザーテレサも世界平和を望むならまずは家族を愛しなさいって言ってたよ。たぶん。

 

不幸な人達に足を引っ張られ惑わされるのはごめんだよ。

 

わたしは、幸せな人間の言葉にだけ耳を貸す。

 

 

そもそも本当に幸せで満たされている人は、基本的に人にアドバイスとかしてこないんだけどね、 

たぶん昔の人はもっとロマンチストだったろう。

 

ラブレターを書いた。

 

人生ではじめての本気ラブレター。下書きに3時間くらいかけた、と聞けばどれくらいの本気度か分かっていただけるだろうか。ああでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返して、いざ書き出したらやっぱ気に入らなくなって、何度も書き直したせいで結局トータル4時間くらいかかった気がする。

伝えたいことを言葉にするというのは、とても難しい。

文字というのは言葉と違って何度もやり直せるからだろうか。

もっと適切な表現がある気がして思い悩んだり、できるだけ綺麗で纏まりのある文になるよう言葉のチョイスを変えてみたり。

 

そんなことをしていると、ふと「この時間はなんてロマンチックな時間なのだろう」という想いが湧き上がってきた。

結局のところ、伝えたいことはただひとつ「あなたを愛してます」ということだけなのにその言葉を伝えたいがためだけに色んな言葉で飾り立てる。

こんなに無駄でロマンチックで素敵な行為がほかにあるだろうか。

 

今は好きな人に会おうと思えば簡単に会いに行くことができるし、ほんの少しの勇気さえあれば直接会ったり、電話したりLINEでも「君のことが好きだ」と告白できてしまう時代。 

昔と比べれば、「告白する」ハードルはめちゃくちゃ低くなってる気がする。

確かに便利にはなったけれど、ロマンチックさは失われてしまったと思うとなんだか悲しい。

 

昔はもっとややこしいしがらみとか、身分の違いとか色々あって大変だったろう。そしてその不自由さがロマンチックを育てたのかもしれない。

 

昔の人たちが少し羨ましいな、と思ったりする夜なのでした。

他人を許すより自分を許すことのほうが何倍も難しい。

 

 

ときどき心臓が、わけもなく痛みだす。

 

ギュッと掴まれたみたいに息苦しくなって胸の真ん中がじくじくと痛む。

昔は今より酷くて息苦しすぎてよく死にそうになってた。
どんなに深呼吸しても息ができなくて困ってしまう。
肺に穴が空いてしまったんじゃないかって気持ちになるんだ。

それはいつも突然やってくる。

ウトウトしてたり、歩いてたり、TVをみてたり、そんなときに前触れもなくやってくる。まわりの酸素が突然なくなってしまうのだ。

 

最近はそんなふうに息苦しくなることはなくなった。
でも全くなくなったわけではなく、やはり少し心臓が痛む。

勝手に息苦しくなるのはきっとストレスが原因だとおもってた。

ひとつずつストレスの元を断っていくごとに、それに比例してわたしの息苦しさもマシになっていったからたぶんその推測は正しいんだろう。

 

そして今、わたしにはストレスがない。

全くないと言ってしまえば嘘になってしまうのだけれどほぼない、と自分ではおもっている。しあわせものだ( ˘ω˘)

なのに昨日お洒落なカフェで、私のいちばん大好きなレモングラスハーブティーを飲みながらぽやーっと「うへへ。今日もたのしい」とか考えてたら急にわたしの心臓がじくじくと痛みだしたのだ。

不思議だな、と思った。

 

わたしの心臓はいったい何が不満なのだろう。

 

ふと頭に思い浮かんだのは「わたしは自分を許していない」という言葉だった。

きっとこの痛みの正体はそれだ、って気がした。

 

最近、友人に「なんだか初めて会った頃よりずいぶんと丸くなったね。」と言われたのだけれど、それはきっとわたしが色んなモノを許したからだろうと思う。

上手く言い表せないけれど許したというよりは”愛になった”というのが一番近い。怒りや憎しみ、憤りの下にはいつも悲しみや寂しさがあってそこを受け入れると不思議と怒りや憎しみの感情は消えてなくなる。解放されるのだ。

人のことなどどうでもよくなってしまう。もちろんいい意味で。
人に優しくなれる、気がする。知らんけど

 

だけど他人を受け入れることはできても「自分自身のことは受け入れられていなかったのだ。」と気づいた。

 

たぶんわたしは自分を許せていない。

遠い過去に傷つけてしまった人のことを心の何処かで思い出しては今でも後悔しつづけているのだとおもう。許されないことをしてしまったと嘆いている自分がどこかにいる。

あの頃のわたしは、とても辛くて余裕がなくてそんな自分が歯がゆくていつも苛ついていた。怒りと恐怖と虚しさがわたしを支配していた。幼かった私はその苛立ちを周囲にぶつけることしかできなかった。

もしこれが他人の話なら「それがその時のアナタの精一杯だったのでしょう。」と優しく抱きしめられるのにそれが自分だとなると、なかなかそうすることは難しい。

わたしが人を傷つけることをとても恐れていたり人を平気で傷つける他人をみて心が波打つのは、きっとそんな過去の自分を許せていないからなのだとおもう。 


他人に優しくしすぎて疲れてしまう人というのは自分に厳しすぎる人なのかもしれない。
 


わたしを許してあげたい。
優しくしてあげたい。

大好きな人を愛するように自分を愛することができたとき、わたしは幸せになれるのではないかと思うのです。




バカにするのとただ受け入れるのは似てるようで全然違う。

 

すぐに人をバカにしてまう自分が嫌いだった。

 

「なんでこんなことも分からないの?」「何にも考えてないじゃん」「この人には言っても無駄」「バカみたい」

笑顔で当たり障りのない会話をしていても、頭の中ではいつもそんな声がぐるぐるしていた。

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本気出して言い訳できなくなるのがこわい。

久しぶりに幼なじみとお茶をしたよ。

彼女は「流されやすいのをやめたい」と言ってた。

わたしは「君はもっと自分に自信をもてばいいんだよ。」といった。

彼女が人に流されてしまうのは、もしこれを断ったら嫌われるかも、とかちょっと嫌だけどそんなに嫌じゃないしまあいっかと相手に合わせてしまうからなんだとおもう。それであとで後悔するのだ。

 

彼女はとっても素敵な人だ。明るくて笑顔が素敵で爽やかでそこにいるだけで場が華やぐ。太陽みたいな人。

なのに彼女はいう。「わたしはどこにでもいる普通の人。」

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バカなふりするほうがバカ。

今日ふと思い出したことがあるんだ。

けっこう前の話なんだけどドラマ「アラサーちゃん無修正」を見てたときのこと。

女「私と付き合おうよ。」

男「やだよ。だってお前、バカじゃん。」

女「男がバカな女が好きだからバカなフリしてるだけで、私から言わせるとそれにダマされる男がバカ(怒)」

男「でもお前ってバカな女を好きっていうバカな男の気ばっかり引いてるじゃん、それってバカじゃん。 

というワンシーンがあるんだけど、そのセリフ(『でもお前って、バカな女を好きっていうバカな男の気ばっかり引いてるじゃん、それってバカじゃん』)を聞いた時まるで頭をガツンと殴られたかのような衝撃が走ったんだよ。

「確かに…!まさにその通りだ。」と思ったんだ。

こうすれば喜ぶんでしょ?とバカなフリしてるくせに、いざ寄ってきたら寄ってきたで相手をバカにする。でも結局のところ、いちばんバカなのはそんなことしてる自分自身なのだ。
恐ろしいことに、最初はバカなふりだったとしても気づかないうちにだんだんとバカに染まっていってしまう。本末転倒である。あぁ、なんてバカバカしいんだろう!

「誰かに好かれたい」とホントの自分を隠して偽りの仮面を被った”わたし”が誰かに好かれたって人気者になったって、嬉しいという感情はあくまで一時的なものでしかない。次第に苦しくなっていってしまうのがオチなのだ。

偽りの自分をいかにうまく演じることが出来たとしても、

最後に残るのは虚しさだけ。 

刹那的で抗いがたい寂しさを満たしたいばっかりについ道を踏み外してしまったせいで起こった悲劇。だけど結局そうするでしか寄ってこないような人たちというのは、そもそも私の人生という舞台に必要なキャストではなかったのだ。

 

私の人生の主役はいつだって”わたし”なのである。 

 

おわり。