行間をよむ

名前に価値があるのではない。言葉に価値があるのではない。

心配しないで。なんとかならないことなんて、この世にひとつもないのだから

わたしがマイペースだと、自由だと、変わっていると、とんちんかんだと、人からよく言われるのは、誤解を恐れずに言うと、きっと「死ぬ」ことに対する恐怖が人より弱い(というか殆どないに等しい)からだと思う。

「死にたい」と思っているわけではないよ。もちろん生きたいとも!生きれるだけ!

自ら望んで線路に飛び込んだりはしないし、殺されそうになれば無様に命乞いすると思う。だけどそういうことではないのです。

わたしはいわゆる、輪廻転生ってやつを信じている。
なぜ信じているのか?という質問には答えられない。だって理由なんてないのだから。
ただ信じているのだ、信じているというより知っているという感覚のほうが近いような気がする。

あと、人がいつ死ぬのかというのは生まれる前から決まっている、とも思っている。

死ぬときは死ぬ。

どんなに足掻いても、注意していたとしても、その運命からは逃れられない。良くも悪くも、すでに決まってしまっている、なぜかそんな気がしているんだ。

だからだろうか。わたしは「生」に対する執着が、たぶん人より弱い。

そして弱いぶん、それに比例して恐れ、みたいなものも弱い。だからこそ、周りからみると自由そうに、身軽そうに、余裕がありそうに、みえるのではないだろうか。

 

魂というのは、リレーのバトンのようなもので、前の人から次の人へ、またその次の人の手に渡されていくものではないかと思うのです。
みんなゴールを目指して思い思いに走っていて、わたしは前世の”わたし”からバトンを受け継いだ、そんな感じ。

そしてまた、わたしも走っている。

前世のわたしや、前前世のわたしがしてきたように、来世のわたしにバトンをつなぐために、人生というレールを走り抜けるのだ。共通しているのは、みな「ゴールを目指している」ということ。

では、ゴールとは一体どこなのか、なんなのか?
それはわたしには分からない(分からんのかい)。

でも、大事なのは「楽しむ」ことなんじゃないのかなあ、とかぼんやりと思ってたりする。砂を踏みしめる足裏の感覚、頬に当たる風、なびく髪、流れる汗、歓声の熱気、そういうのを味わって楽しむ、みたいなのがわたしが走る意味で、そして生きてる理由、なのかもしれない、し違うのかもしれない。まあ、そんなのはどっちでもいいのである。

だけど、せっかく与えられたこのいのちなのだから、苦しんだり憎んだり我慢するより、楽しんで、やりたいことして、愛に生きたほうが、絶対にいいと思うんだよな。

だからわたしは、ばかだとか、子どもだとか、甘ったれてるとか、うまくいきっこない、だとかなんとか言われても、全然気にしない。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。なんとかなるよ」と笑ってられる。

だってさ、どうしようもなくなったら、死んでしまえばいいのです。

そうなったら来世の”わたし”にまかせることにしましょう。
もちろん、誠意いっぱい全力をつくしてから、だけどね。

だから、あなたも、だいじょーぶです。

 

いっしょに楽しいこと、しませんか。