行間をよむ

名前に価値があるのではない。言葉に価値があるのではない。

自分と気の合う人、思想の似てる人のみつけかた

簡単なようで、意外とむずかしい。

この世界には色んな人がいて、みんなそれぞれ色んなことを考えてるわけで、わたしと全く同じ人間なんてもちろん存在しない。

せいぜい20年くらいしかまだ生きてないけど、それでも幼稚園、小学校、中学校、高校、専門学校と大きくなるにつれ、環境が変わるたびに、色んな人々に出逢ってきたわけで。

だけど、その中でほんとに気の合う人なんてほとんどいないのが現実だ。

ジグゾーパズルのピースとピースがカチッとハマるような相手なんて、めったに出会えるもんじゃない。人がなにを考えてるかなんて分からないし、形あるものでもないし、そういうのって日々変わっていくものだから余計にむずかしい。

こうやってブログというかたちで文字におこすことで、目に見えない「わたしの思考」というものが少しは形になるけれど、それはやっぱりどこか心許ないというか、言葉にはどうしても限界があって、言葉にしたとたん消えてしまう想いや、表現しきれない気持ちっていうのが存在する。

それに文字にしたところで、それはわたしのほんの一部分、ほんの一面でしかなくて、わたしの全てを表現することはやっぱり不可能だ、とも思う。

 f:id:Theskyisthelimit:20171017041302j:image

そんな目に見えなくて、分かりにくい個人の性格や思想を、形にしているもの。

それはその人自身の「好きなもの」なんじゃないのかなと思うのです。

好きな本、好きな映画、好きな音楽、好きな人、好きな場所、好きなファッション、好きな色、好きな食べ物。そういったものの端々に「その人らしら」みたいなのが散りばめられている気がする。

気の合う人というのは全部、とは言わないまでも、そのうちのどれかが被ってたりすることが多い。

 

これはちょっと関係ない話なのだけれど、わたしは相手の好きな本を2,3冊聞けば、相手がどんな人間なのか、だいたい分かると思っている。
あと、本棚を見られるのは、まるで自分の頭の中を覗かれてるみたいで、少しこそばゆいというか、なんだかちょっと恥ずかしい。
これって本好きあるあるだと思うのだけれど、どうなんだろう?

本の好きな私の場合はそんな感じだけど、本に限らず、その人の好きなものって、その人自身の思想を限りなく具現化したものに近いと思う。

だから、わたしは新しい人と話すとき、好きなものについて聞くことにしている。あ、あと家族の話題も聞くかも。そのふたつを聞けば、だいたいその人がどんな人か分かるし、自分に合うか合わないかも把握できる、ような気がしてる。